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藤の屋文具店

藤の屋文具店

裕子疾走る



           【祐子疾走る】



「ねぇ、このクルマ、もう乗り換えようよ」

 がらがらと振動する助手席で、祐子が軽い調子で言った。

「うるさいのは我慢するけど・・環境のこととかさ、なんかさ、後
ろめたいしぃ。。」

 ちょっと困ったような顔をして、雄一はちらりと顔を向ける。

「お金、半分出してもいいよ、ほんとはもっと、乗りたいのあるん
でしょ?」

 少し寂しそうに微笑んで、雄一はシフトレバーを握った。両足が
忙しく動き、苦しそうなエンジンの音が一瞬高くなって、滑らかに
左手が踊る。黄土色の無骨なクルマは、上り坂のコーナーをぐいぐ
いと登り、プラスチックの白い屋根はぎしぎしと悲鳴を上げた。

「そうだな、乗りたいのはあるけど、でも、これとあまりかわらな
いよ」

 クルマには興味のない裕子にとって、こんな、自衛隊か営林署み
たいなのより、マシなのはいくらでもありそうに思えたが、お気に
入りのおもちゃで遊ぶ子供のような顔を見ていると、いつも、切り
出せないでいた。
 それが、めずらしくこんなことを話題にしたのは、ちょっと前の
同窓会のパーティで、ホテルへ迎えにきた雄一が、なんだか、みす
ぼらしく見えてしまったせいである。そうでなくても地味なのに、
作業員みたいな格好でうれしそうに手を振られたのが、となりにい
た大学時代のボーイフレンドに見られて恥ずかしかったのだ。

「なんていうクルマ? どこの国の?」

 小洒落た別荘が並び始めた脇道に入った。空はどんよりと低く、
空気が重い。いっぱいに開けた垂直な窓から、生暖かい風が顔をな
でた。

「イギリスのだけど、今はBMWが買い取ったから、ドイツ車にな
るんかな。ディーゼルとガソリンとあるんだ。。」

 35歳で工場長に抜擢された雄一には、こんなふるいクルマより、
そのBMWのほうが似合っていると思ったけれど、なんだか、自分
の知っているBMWとは違うような気もする。

「じゃ、買いなさいよ、それ。わたし半分だすから、ほかの女の子
乗せちゃだめよ」

 わりといい男なのに、見かけに気を遣わないので女性にもてたた
めしはないのだけど、とりあえずキープしておきたい裕子としては、
ちょうど良い投資のように思えた。

「110って書いて、ワンテンって呼ぶモデルなんだ。でも、見た
らきっと、反対するよ」

 なんだか、BMWにしては数字がちょっと小さいような気がした
けど、こんなポンコツよりずっといいわ。反対する気はなかった。

「あ、あそこだ、ほら、ログハウスっぽいあれ・・・、ね、どうす
る? 一緒にくる? なんか、雨が降りそうな感じだしぃ」

 微笑みながら首を横に振ると祐子を下ろし、雄一は来た道を引き
返していった。山のほうに黒い雲が急に涌き出て、風が出てきた。



                ●



 学生時代の仲間のパーティは、楽しかった。雄一と違って都会的
で、遊びなれていて、センスの良いジョークも、新しいゲームも、
ショッピングの話も、息をするように自然に楽しめた。

 雄一とは、付き合っている、というほどではない。見かけのしょ
ぼいのさえ我慢すれば、どんなにわがままを言っても怒らずに言う
ことを聞いてくれるので、いつも一緒にいるようになったのである。
 ひとまわり近く歳が離れているし、もっといいのがみつかるんじ
ゃないか、そんな夢を捨てきれずにいるのだが、言い寄ってくる若
くてかっこいい男の子といるより、ずっと楽なので、なんとなく、
いつも一緒にいる。男性としてはあまり意識していないけど、一緒
に暮らしても、きっと楽だろうな、とは思う。

「あーあ、もっといいひといないのかなぁ~~」

 聞こえないようにそっとつぶやいて、雨音を聞きながらグラスを
空けた。仲間たちは、ダイニングで騒いでいる。明日も休みだけど、
もう、泊まっていく気持ちもなくなっていたので、雄一に、迎えに
来てねとメールを打つ。無口なので何も言わないけど、一緒にいる
と嬉しそうなのが伝わってくるので、こうやって呼びつけても、罪
悪感はなかった。甘えてあげてるんだぞぉ。

「おい、やばいぞ!」

 真剣な声にダイニングのほうを覗くと、テレビで台風情報をやっ
ている。先ほどから激しくなってきた雨が、不安を大きくする。

「この川って、ここの上流じゃなかったっけ?」

 画面では、倒木が暴れながら流れる土色の川を映していた。川の
横を走る道路と、もうあまり落差がない。このあたりは先ほどから
降り出したけど、上流では朝から降り続けていたみたいだ。

 帰ろう、と言い出すタイミングがつかめないのか、みんな、ニュ
ースを黙ってみている。

 突然、閃光が走った。大きな音がして、急に真っ暗になった。小
さな悲鳴が上がる。みんな暗闇でじっと待つが、いっこうに明るく
ならない。

「帰ろう!」

 もと、スキー同好会のリーダーの健史が、決心したように言った。

「深夜にこのへんを直撃するみたいだから、今のうちに出たほうが
いい。下手すると、帰れなくなる」

 携帯電話で足元を照らしながら、誰かが表へ出た。駐車場へ行っ
てエンジンをかける。裏庭のあたりがぱっと明るくなった。闇を照
らす光がぐるんと回って、玄関のほうに移動する。がちゃっとドア
が開いて、洋子が入ってきた。

「ちょっと! たいへん、先のほうの道路が土砂で埋まってる!」

 ばたばたとみんなで出て行く。ヘッドライトで照らされた先では、
斜面から崩れ落ちた土砂が横断して、県道へ続く一本道を行き止ま
りにしていた。

「ねえ、クルマであそこ、乗り越えていけないの?」

 健史が懐中電灯を持って、歩いていった。道路にできた山の上に
明かりが揺れながら登っていく。しばらくしてから明かりが引き返
してきて、叫んだ。

「だ~めだぁ~、歩いてなら登れるけど、クルマは無理だぁ~~」

 途方にくれて、全員、真っ暗なままの別荘に戻った。クーラーが
止まって、だんだん蒸し暑くなってくる。冷蔵庫も電子レンジも使
えない。健史が携帯で天気のニュースを探している。今のところ注
意報レベル。今夜半にかけて暴風域に入れば、場合によっては避難
勧告が出るかもしれない。

「なんで、天気のことしらべてこなかったのよぉ~~」

 悲鳴に近い声で、珠美が叫んだ。男たちも、ぐちぐちと独り言の
ように騒いでいる。テーブルの上に立てられた懐中電灯が天井を丸
く照らす。雨はまだ、少し強い程度にしか降っていないが、みんな
の心はずっしりと重くなっていた。


                ●


 祐子は、雄一につれられて何度か行ったキャンプのせいか、最初
のうちは落ち着いていたが、だんだん強まる雨音に、心細くなって
きた。携帯電話も、ちょっと前から繋がらなくなっている。みんな
黙りこくってじっとしているので、雨の音だけが大きく聞こえる。

 洋子と珠美が、啜り泣きを始めた。健史と洋一は、小さな甲高い
声で、笑っているようにみえた。祐子は、どんどん心細くなってき
た。ふたりの女の泣き声がだんだん大きくなってきて、一緒に声を
張り上げて泣けたら、きっと楽になるだろうなぁ、などと、それで
もまだ冷静に耐えていた。雨は、少しずつ、激しさを増してきた。

 いつのまにか、祐子は、雄一の名前を呼んでいた。小さな声で、
呪文のように、繰り返し繰り返し、呼んでいた。少しだけ、心が落
ち着いた気がした。懐中電灯だけが照らす薄暗い部屋の中で、眠る
ことも出来ずに、じっと座って、何かを待ち続けるように、繰り返
した。

 と、遠くから、雨音に混じって何か別の音が聞こえたような気が
した。

 空耳かと思ったが、音は少しずつ大きくなってきた。

 祐子は、傘も差さずに玄関から出て、音のするほうを見た。

 音は、県道へ繋がる道の、土砂で埋まったその向こうから聞こえ
てくる。
 
 だんだん大きくなる音に気付いて、皆も表へ出てきた。

 音は、土砂崩れの向こうで急に静かになった。誰かが歩いて登っ
てくる。

 人影は、大きな木の下で何かがちゃがちゃやってから、また、戻
っていってしまった。

 声を出すのも忘れて見入っていた祐子が何か言おうとしたとき、
突然、ガラガラガラという力強い音がひときわ大きくなり、砂山の
向こうの空がぱぁっと明るくなった。空を照らす二本の光は弧を描
いてこちらに向き、上下左右に激しく揺れながら、どんどん近づい
てくる。反射した光で車体が見えた。無骨な黄土色のボディの、少
し内側に寄ったヘッドライトの光がこちらを照らす。バンパーの上
では、いつもはカバーのかかっている機械がむき出しになって、鋼
鉄のロープをゆっくりと巻き取っている。細くて大きなタイヤは、
信じられないくらいねじれた格好で、それでも確実に、山を乗り越
えてこっちに進んできた。雨音をかき消すように、もとはダイハツ
の設計になる大排気量4気筒B型ディーゼルエンジンの、轟音が響
きわたった。
 

「ゆ~う~い、ちぃ~~」


 もう、つぶやきではなくて、大声で叫びながら、祐子は、運転席
から手を振る人影に向かって、駆け出していった。






                           (了)


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